那須 その2-2 「石」


教傳地蔵の由来について
この教傅うまれながらの不良少年で、心配した母が、お坊さんにしようとしてこの寺に預って
もらいました。その教傅も二十八歳になって、前の佳職の跡をつぎ、母と一緒に寺に住むように
なりましたが、その行いは少しも直りませんでした。
元亨元年(一三三六年)のことです。教傅は、二・三人の友人と一緒に、那須温泉に湯治に行く事
になりました。その日のことです。教傅は、母が朝食を用意してすすめると教傅はまだ旅仕度くも
出来ていないのにと悪口を言いながら、お膳をけとばしてそのまま出発してしまいました。
那須温泉に着いた教傅達は、ある日殺生石を見学しようと賽の河原附近まで行くと、今まで
晴れわったていた空が、俄かにくもり雷鳴が天地をゆるがし、大地から火災熱湯が噴き出し、
連れの友人はいっせいに逃げ去りましたが、教傅は一歩も動くことが出来ませんでした。

ふり向いて見ると「おれは寺を出るとき母の用意したお膳を足げりにして来た天罰をうけ火の海の
地獄に墜ちて行く」と教傅が大声をあげ苦しみもがいております。
友人がかけ寄り助けようとひきだしましたが、教傅の腰から下が、炭のように焼きただれており
息をひきとってしまいました。
それからも教傅の引き込まれたところには泥流がブツブツと湧いていましたが、いつしか山津波
埋ってしまった。その後、湯本温泉の有志が、享保五年に地蔵を建立して供養を行い、親不孝の
いましめとして参拝する者が後を断たなかったと言うことです。

[千体地蔵]
この千体地蔵、衆生の平安を祈って、とても大きな御手をしているのが特徴です。