田んぼ通信より

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 ■『心の琴線に触れるお話 WEB版 』
   − 若者よ、君たちが生きるきょうという日は
        死んだ戦友たちが生きたかった未来だ − 

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八杉康夫(戦艦大和語り部)       『致知』2006年8月号より


 平和への祈りをこめ、戦争体験者の記事をご紹介いたします。戦艦大和の乗
組員として沈没を体験し、映画『男たちの大和』のモデルにもなった八杉康夫
氏のお話です。

 大和の後部が白煙を上げているのが私にも分かりました。なおも攻撃が続け
られ、魚雷が的中した時は震度5にも感じられるほど激しく揺れました。

 次第に船は傾いていきます。砲術学校では、戦艦は十五度傾いたら限界と習
ってきましたが、二十五度、三十度とどんどん傾いていきます。それでも、戦
闘中は命令がない限り持ち場を離れることはできません。

 その時「総員、最上甲板へ」との命令が出ました。軍には「逃げる」という
言葉はありませんが、これが事実上「逃げろ」という意味です。すでに大和は
五十度ほど傾いていましたが、この時初めて、「大和は沈没するのか」と思い
ました。それまでは本当に「不沈戦艦」だと思っていたのです。

 もう海に飛び込むしかない。そう思った時、衝撃的な光景を目の当たりにし
ました。私が仕えていた少尉が日本刀を抜いたかと思うと、自分の腹を掻っ捌
いたのです。噴き出す鮮血を前に、私は凍り付いてしまいました。船はますま
す傾斜がきつくなっていきました。九十度近く傾いた時、私はようやく海へ飛
び込みました。

 飛び込んだのも束の間、沈む大和が生み出す渦の中へ巻き込まれてしまいま
した。その時、私の頭に過ったのは海軍で教わった「生きるための数々の方
策」です。

 海軍に入ってからというもの、私たちが教わったのは、ひたすら「生きる」
ことでした。海で溺れた時、どうしても苦しかったら水を飲め。漂流した時は
体力を消耗してしまうから泳いではならない……。

 陸軍は違ったのかもしれませんが、海軍では「お国のために死ね、天皇陛下
のために死ね」などと言われたことは一度もありません。ひたすら「生きるこ
と、生き延びること」を教わったのです。

 だからこの時も海の渦に巻き込まれた時の対処法を思い返し、実践しました。
しかしどんどん巻き込まれ、あまりの水圧と酸欠で次第に意識が薄れていきま
す。その時、ドーンという轟音とともにオレンジ色の閃光が走りました。戦艦
大和が大爆破したのです。そこで私の記憶はなくなりました。

 気づいたら私の体は水面に浮き上がっていました。幸運にも、爆発の衝撃で
水面に押し出されたようです。しかし、一所懸命泳ぐものの、次第に力尽きて
きて、重油まみれの海水を飲み込んでしまいました。

 「助けてくれ!」と叫んだと同時に、なんともいえない恥ずかしさが込み上
げてきました。この期に及んで情けない、誰にも聞かれてなければいいが……。

 すると、すぐ後ろに川崎勝己高射長がいらっしゃいました。「軍人らしく黙
って死ね」と怒られるのではないか。そう思って身構える私に、彼は優しい声
で「落ち着いて、いいか、落ち着くんだ」と言って、自分がつかまっていた丸
太を押し出しました。そして、なおもこう言ったのです。

「もう大丈夫だ。おまえは若いんだから、頑張って生きろ」

 四時間に及ぶ地獄の漂流後、駆逐艦が救助を始めると、川崎高射長はそれに
背を向けて、大和が沈んだ方向へ泳ぎ出しました。高射長は大和を空から守る
最高責任者でした。大和を守れなかったという思いから、死を以て責任を取ら
れたのでしょう。高射長が私にくださったのは、浮きの丸太ではなく、彼の命
そのものだったのです。

 昭和六十年のことです。いつもピアノの発表会などでお会いしていた女性か
ら喫茶店に呼び出されました。彼女は辺見さんが書かれた『男たちの大和』を
取り出し、こう言ったのです。

 「八杉さん、実は川崎勝己は私の父です」

 驚いたなんていうものじゃありません。戦後、何とかしてお墓参りをしたい
と思い、厚生省など方々に問い合わせても何の手がかりもなかったのに、前か
ら知っていたこの人が高射長のお嬢さんだったなんて……。

 念願叶って佐賀にある高射長の墓前に手を合わせることができましたが、墓
石には「享年三十一歳」とあり、驚きました。もっとずっと年上の人だと思い
込んでいたからです。その時私は五十歳を超えていましたが、自分が三十一歳
だった時を思い返すとただただ恥ずかしい思いがしました。

 そして不思議なことに、それまでの晴天が急に曇天となったかと思うと、突
然の雷雨となり、まるで「十七歳のあの日」が巡ってきたかのようでした。天
皇も国家も関係ない、自分の愛する福山を、そして日本を守ろうと憧れの戦艦
大和へ乗った感動。

 不沈戦艦といわれた大和の沈没、 原爆投下によって被爆者になる、そして
敗戦。そのすべてが十七歳の時に一気に起こったのです。十七歳といえば、い
まの高校二年生にあたります。最近は学校関係へ講演に行く機会もありますが、
現在の学生の姿を見ると、明らかに戦後の教育が間違ったと思わざるを得ません。

 いや、生徒たちだけではない。間違った教育を受けた人が先生となり、親と
なって、地域社会を動かしているのです。その元凶は昭和史を学ばないことに
あるような気がしてなりません。自分の両親、祖父母、曾祖父母がどれほどの
激動の時代を生きてきたかを知らず、いくら石器時代を学んだところで、真の
日本人にはなれるはずがない。

 現に「日本に誇りを持っていますか」と聞くと、学校の先生ですら「持って
どうするんですか?」と真顔で聞き返すのですから。

 よく「日本は平和ボケ」などと言われますが、毎日のように親と子が殺し合
うこの日本のどこが平和ですか?

 確かに昔も殺しはありました。しかし、「殺してみたかった」などと、意味
もなく殺すことは考えられませんでした。真の平和とは、歴史から学び、つく
り上げていくほかありません。鶴を折ったり、徒党を組んでデモをすれば天か
ら降ってくるものではないのです。

 しかし、一流の国立大学の大学院生ですら、「昭和史は教えてもらっていな
いので分かりません」と平気で言います。ならば自分で学べと私は言いたい。
自分で学び、考えることなしに、自分の生きる意味が分かるはずがないのです。

 人として生きたなら、その証を残さなければなりません。大きくなくてもい
いのです。小さくても、精一杯生きた証を残してほしい。戦友たちは若くして
戦艦大和と運命をともにしましたが、いまなお未来へ生きる我々に大きな示唆
を与え続けています。

 復員後、長く私の中に渦巻いていた「生き残ってしまった」という罪悪感。
それはいま使命感へと変わりました。私の一生は私だけの人生ではなく、生き
たくても生きられなかった戦友たちの人生でもあるのです。

 うかうかと老年を過ごし、死んでいくわけにはいきません。未来の日本を託
す若者たちが歴史を学び、真の日本人になってくれるよう私は大和の真実を語
り続け、いつか再び戦友たちに会った時、「俺も生かされた人生でこれだけ頑
張った」と胸を張りたいと思います。

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ただただ  合掌。

私たちは、この国を支えてきてくれた方々のいろいろな思いを少しでも考え、
その時の想いを共有し、どうしたらこの日本と言う国を素晴らしき良き国に
出来るのか想像・創造していかなければ。
アメリカでもヨーロッパでもない、この日本と言う国に生まれてきたことに感謝。
年齢が、性別が、貧富の差が、どうであれ。
私たちは、それなりの想像・創造が出来るのです。
そこで留まるのではなく、「地球人として生きる」それが私たちのこれからです。

感謝。